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Burari Toge Pass

ブラリ峠


ブラリ峠

    須田 茂さんの群馬の峠には、いままで聞いたこともなかった峠がたくさん掲載されています。 それにしてもブラリ峠とは変わった名だなあ。 どういう由来なんだろう、そして、それってどこなんだろう。 でも、記述はわずかに下記。

ブラリ峠 500m

藤岡市下日野の駒留〜高井戸〜吉井町大沢

(須田 茂 著 群馬の峠 p36から抜粋)

    同書に掲載されている地図は概略に過ぎず、さらにブラリ峠については明確には表示されていません。 国土地理院の2万5000分の1地形図では、駒留と高井戸の2つの集落を直接つなぐ道はありません。 さあて、ブラリ峠とはいったいどこだ。

    右に示したのは、明治初期に作成された迅速測図の一部です。 この地図では、駒留と高井戸は歩道を示す実線と、踏み分け道を示す破線でつながっています。 そこで、駒留と高井戸をつなぐ道を赤色でなぞって強調してみました。 さらに、現代の地図に掲載されている道路を青色でオーバーレイしてあります。

    高井戸と大沢をつなぐ道は大沢峠を越えるもので、この区間は共通でしょうから、

ブラリ峠は駒留と高井戸をつなぐルート上にある

ものと仮定します。 すると、駒留と高井戸とをつなぐ2通りの道は、1本は細い道であることがわかりますが、 いずれの経路も標高428と示されたちいさなピークの西側の鞍部を越えています。 ブラリ峠が駒留と高井戸をつなぐルート上のものならば、ここに違いないと思います。



[注: 上記の図は検討当初のもの。ブラリ峠の位置はおそらく正しくありません。]
[Caution: Above illustration was drawn earlier; the loation of Burari Toge is thought to be incorrect.]


弘法の井戸とブラリ峠

    現代の地図によれば、弘法の井戸から細いながら車道が延びてこの鞍部を掠め、 428mピークを取り巻くようにして南に下り、駒留をめざしているように読めます。 1 ので、 ポゴといのぶ〜で弘法の井戸を訪ねることにしました。

    弘法の井戸は自然の湧水。 もう気温はずいぶん高くなっていてのども渇いたし、早く飲んでみたいな。あっ、ここだ。 プレハブ小屋の引き戸を開けると、中には・・・ ええっ? スイカが宙に浮いている!!!

    良くみると、プレハブ小屋の内部はちょうどお風呂か小さいプールのようになっていて、張られた水にスイカが浮いていたのでした。 水はあまりに清らかに澄んでいて、水面は波ひとつなく鏡のようだったので、 スイカが宙に浮いているように見えたのです。 これはすごい、なにか異次元の世界に来たような錯覚。

    ある意味水は溜め置きだから飛び上がるような冷たさではありませんでしたが、 それでもじゅうぶんに冷たく、飲んでみるとあまくてうまい!! おいしい水をいただけたことに感謝し、隣の賽銭箱に二人で小銭を入れ、家族の健康を祈ります。

    弘法の井戸のあるここの集落は高井戸といいます。 天然の湧水があるがゆえに成立した山奥の集落、そして「高井戸」の名前もうなづけます。

    弘法の井戸を出発して、いよいよフィールドワークとばかりに走り出すと、ブラリ峠への入り口はすぐに見つかりました。 非舗装路面はタイヤ跡も夏草に覆われ気味で、軽トラがせいぜい1日に1往復通るかどうかという感じです。 が、何箇所か木の枝が飛び出ている以外は2名乗車のいのぶ〜での走行に支障はなく、 傾斜はさほど急ではないのでクラッチ焼けの心配もありません。 2人とも半そでTシャツですし、転ばないようにゆっくり進んで行きます。 するとほどなく明らかな鞍部に到着しました。 ここがブラリ峠でしょう。

    峠には軽トラが安心して転回できる広いスペースがあり、眺望は利かないものの明るい峠です。 ここでお弁当というのも楽しそうです。 良くみると、南西の方向に歩道が延びています。 これは迅速測図で破線で示されていた細い道に違いありません。 江戸時代には人が通っていた細い道。 それが今でも残っています。 今では生活のためにこの道を使う人もいないでしょうし、 こんな無名の峠を訪れる物好きハイカーがいるとも思えません。 ので、今では林の手入れをするのに使われる道なのでしょう。

    ブラリ峠到達ということにして、さあ次のチャレンジは駒留まで降りられるかどうか。 峠から先はいっそう道が細くなるので不安に思いながらスタートすると、標高を落とし始めて428ピークを回り込んだところで道を完全にふさぐ倒木。 今日はポゴもいるし、そうまでして道の先行きを知る必要もないので、またのお楽しみということにして引き返しました。

2013-08-17 弘法の井戸とブラリ峠










ここはブラリ峠じゃなさそうだ

    でもなあ、本当にあそこがブラリ峠だったのだろうか。 藤岡市史を読んでみると、

ブラリ峠

駒留から北の高井戸に出て、ブラリ峠を通って、多胡の大沢に抜ける道がある。 高井戸の裏山を越える山道にブラリ峠があり、恋ノ沢の上方を通り、吉井町大沢へ出て多胡から吉井へ行く。

(藤岡市史 民俗編 p645から抜粋)

    ううむ、この叙述では正確な位置は釈然としません。 この解説には2つの文がありますが、叙述内容は重複しています。 おそらく編集の際に2つの別の記述があり、それぞれをそのまま掲載したのでしょう。 藤岡市史には地名入りの精密な地図が付属あるいは掲載されているわけではないので、 この文章自体が新たな謎になっています。

    1番目の文からは、ブラリ峠は駒留と高井戸の間ではなくて、高井戸と大沢の間にあると読めます。 2番目の文では、「裏山」がどこなのか高井戸の住民以外には理解できませんが (逆に言えばこれは住民からの聞き取りで得られた表現でしょう)、 おそらくは高井戸の北西部でしょう。 となるとやはり高井戸と大沢の間ということになり、 一度は「ここがブラリ峠だろう」とした場所はブラリ峠ではなさそうです。


ボウ坂

ボウ坂

駒留から北の山へ登って、峯(みね)集落へ行き、山道を高井戸に抜ける旧道がある。 駒留から峯に上る坂道をボウ坂といい、駒留の小学校に通う子が通った。

(藤岡市史 民俗編 p647から抜粋)

    はたまた、これもレビューすれば指摘される記述ですね。 「駒留の小学校に通う子」は、どこに住んでいる子のことを言っているのでしょうか? 「高井戸に住む小学生が、駒留の小学校に行くときに通った」という意味だと解釈しておきましょう。

    この記事に出てくる「峯集落」は、現代の地図では消えており、よそ者にはどこだかわかりません。 迅速測図では 北緯36度11分51.1秒 東経138度59分27.3秒 のあたりに人家らしいものが見えますから、ここが峯の集落だと仮定します。 とすれば、このボウ坂は、 迅速測図で歩道として示されている駒留と高井戸をつなぐ2つのルートで東よりのもの (実線で示されているルート) だと思われます。 であれば、先日ここがブラリ峠だとした地点はブラリ峠ではなく、ボウ坂の途中の最高地点ということになります。 もしここがブラリ峠と呼ばれていたのであれば、ボウ坂の記事の中にブラリ峠の言葉が出てくるでしょうから。

    うーん、やはりここはブラリ峠じゃなさそうだな。 悔しいので、ここはボウ坂峠と独自仮称することにします。

    ところでなんで「ボウ坂」っていうんだろう。 まだ小さな坊やが通るからボウ坂なのかな。 藤岡市立日野小学校の史料 を見ると、明治初期から駒留の円住寺に学校が設けられています。 高井戸から円住寺まで山道を片道1.8キロ。 ちいさな子供には大変なことだったでしょう。


となるとここだろうか

    ブラリ峠は高井戸の北らしいということで、今度は高井戸と大沢をつなぐあたりの迅速測図をよく見てみます。 記載されている道路に色をつけてみると、東の猪之田と西の大沢をつなぐ道が太く描かれていて、主要な道であったことが示されています。 この道が越えている峠が大沢峠でしょう。 この地図と現在の地形図を比較すると、古来の大沢峠は現在の大沢峠のT字路部(緑色で図示) に対してもっと北にあったことがわかります。

    大沢峠から高井戸への道は、右の地図中で469峰と示したピークへ稜線伝いに走り、469峰の南鞍部東側に沿って南下し、 最後に高井戸北の鞍部を越えて高井戸に降りています。

    ここで重要なヒントは、藤岡市史にある「恋ノ沢の上方を通り」というくだりです。 しかしその文では、「ブラリ峠が恋ノ沢上方にある」のか、それとも「ブラリ峠を通過する道は恋ノ沢上方を通過している」のか、 どちらにも読むことができます。 ここでは期待を含めて「ブラリ峠は恋ノ沢源流上方にある」と読んだとして、 次の質問は、恋ノ沢ってどこだ、ということ。 恋ノ沢という名称は迅速測図にも現代の地形図にも現れませんが、 実は大沢峠の東はいまではゴルフ場になっていて、そのゴルフ場の地番が「群馬県藤岡市下日野字恋ノ沢」です。 ので、この沢が恋ノ沢としていいでしょう。 この沢の上流部はゴルフ場開発によって完全に破壊されてしまいましたが、 迅速測図を見ると、恋の沢源流は469峰の南鞍部、もしくはその南の峠部にあるだろうと読めます。

    ということで、ブラリ峠の候補は
  1. 469峰の南鞍部
  2. 高井戸北の鞍部
です。 地図を見ると、

  • 469峰南鞍部よりも高井戸北鞍部のほうが標高がすこし高い
  • 469峰南鞍部はただ通過しているだけだが、高井戸北の鞍部からは支線も出ている

  • ことから、高井戸北の鞍部のほうがウェイポイントとして扱われるだろうと思われます。





    上の写真が現在の大沢峠。最初に通ったときは「峠」と呼ぶには違和感を覚えましたが、 これは車両を通すために古来の峠とは違う地点で稜線と交わっているためです。 古来の大沢峠はここではなくもっと北。


        ここで、私のちいさな研究に精力的に協力してくれている友人 ---- 私の説に明らかな誤りがあれば看過せずに反証を突き付けてくれるありがたい存在 --- からの報告によると、

  • 469峰南鞍部には旧道踏み分けが現在でも残っている
  • 469峰南鞍部からすぐ西へ下る方向は急な谷
        (=徒歩通行には適さない。峰道ではあるが、峠越えの形態とはならない。)
  • 牛伏山から眺めると、高井戸北の鞍部はあきらかな峠として観望できる

  • とのことで、

  • 大沢と恋ノ沢(猪之田)を結ぶのが大沢峠
  • 大沢峠から南に下り、現在の高井戸分岐で稜線を越えたところがブラリ峠

  • であろうとしており、前述私の説に同意してくれています。

        さあ、であれば、もうすでにブラリ峠は何回も越えていることになります。 仮にブラリ峠が469峰南鞍部であったにしても、そこをすでに通過していますから、 いずれにしても私のログブックのなかでブラリ峠は「到達」ステータスにできます。

        これでひとまずブラリ峠調査の目的は達成。 この後はひきつづき、この山あいの忘れられた小さな峠について書き遺されたなにかがないか折を見て調べ、 あわよくば最大の謎、その名の由来にめぐり合える日が来ることを願うこととします。




    手前の道は猪之田からの登り。 右が大沢峠へ。 左は高井戸へ。 矢印部分が現在のブラリ峠 (と思われる地点)。


    道しるべ寂し 今は通る人もなく

        ブラリ峠について言及された書物は他にはないのだろうかと思い図書館に足を運び、ようやく一冊… 小林 禎仁さん著の平成20年発行の自費出版本、「30年前のふるさと探訪記 吉井町の境界を歩く」を見つけました。 今から35年前に地元広報誌の記事として書かれた、吉井町の境界を歩いた紀行文です。 このなかのp76、「大沢越え ― 道しるべ寂し 今は通る人もなく」に大沢峠を越えた記事があります。

        記事は昭和53年(1978年)3月。 大沢の集落に車を止めた小林さんは500メートルほど歩いて林道終点、そこから急坂を登って大沢峠に到達し、そこで高井戸方面と猪之田方面を示す道標を見ています。 この記事の中で氏は

    牛伏のほぼ真南なのだが、その牛伏は見えない。 展望はきかないが耳が痛くなるほど静かな峠である。 名を「ぶらり峠」とも「恋の沢峠」ともいうと聞いたが、いつごろだれが開き、どんな人が越えたのだろうか。

    と書かれております。 当時は大沢峠はまだ自動車は通れなかったようですね。 氏の紀行文ではゴルフ場は触れられていません。 今の道はその後、ひょっとしたら1990年のゴルフ場の開業に向けて開かれたものなのかも。

        この文からではブラリ峠は大沢峠の別名とも取れますが、 伝聞であるようですから確証というには弱そうです。 迅速測図では大沢峠は稜線伝いに猪之田へ降りており、また恋の沢上流部に降りる細い道も描かれていますから、 ここが恋ノ沢峠と呼ばれても不思議ではありません。 いっぽういま仮説としているブラリ峠の場所は、確かに恋ノ沢の上流ではありますが、沢には降りていないようですから、 恋ノ沢峠と呼ぶにはすこし無理があるような気がします。

        ブラリ峠の存在密度関数はまだ一点収束しきっていませんが、 いっぽうで大沢峠古道の道標はいまでもあるのだろうか。 これは次の休日ハイクの目的地ですね。

        なお小林 禎仁さんは同時期…昭和52年前後の吉井町の街並みや郊外の道の数多くの写真を掲載したフォトブックも発行されています。 その本を開いたとたん、タイムスリップが起きました。 そう…ハスラー50を乗り出したころ、ちょっと郊外に出れば景色はみんなこんなだった。 砂利の山道を登っていて日当たりの良い庭の物干し竿に洗濯物が干されている民家のわきを抜けるときは、砂ぼこりをたてないように減速し、 タッチの悪いシフトペダルを踏んで2速にシフトダウンし、通り過ぎたらこれまたタッチの悪いクラッチレバーを半分握って7000rpmまで引っ張る… あのころの風景はいったいどこに行ってしまったんだろう?




    天王神社

        上のデリカD:5が写っている写真、つまりブラリ峠と思われる地点のY字路において、 手前側の猪之田から上ってきて左に入り高井戸に向かってそのまま通り過ぎてしまうとおそらく見過ごしてしまうと思うのですが、 峠部を越えてすぐに右に振り向くと、分岐点の山頂に登る小さな歩道があります。 そして、天王神社と書かれた木製の柱。



        登ってみると、おやあ、案外といっては失礼ですが、小さくて質素ながらしっかりと造られた社。 御幣が五つ祀られています。 向かっていちばん右の御幣は赤色です。 はて、これはどういった意味なんだろう。 この手はあまり詳しくないもので…。

        コンクリート製の階段の最上段真ん中に栗がいくつか添えられていました。 注連縄は新しく、境内はきれいにされているし、土地の人によって大切にされ守られ続けている様子が伺えます。



        社の背後にはいくつもの古い石造物があります。 いちばん大きくて立派なのはこの庚申塔。 寛政12年の文字が見えます。 西暦1800年、18世紀最後の年のものです。 どこから持ってきた岩なのか、 何らの動力機械もなかった江戸時代、設置するだけでも大変なことだったでしょうに。 それとも後年になって新道工事に伴い近くから移設されここに集約されたものなのかもしれませんが、 考証のすべを持ち合わせていない私には判断できません。

        ここにはもう一つ庚申塔があり、こちらは小ぶりながら「塔」の字体が現代字に近く、万延の年号が見えます。 西暦1860年のもの。


        素朴で品のよい馬頭観音さまには安永9年、西暦1780年の日付。 233年も前のものです。

        ここはもっと古いと思われる、朽ちかけたお地蔵様もあります (上の庚申塔の写真で、塔の左側の木の陰に覗いています)。 一番古いものはどれだろう…とまでは見てみませんでしたが、 この場所は古くから、そしていまでも、高井戸集落の公の場として機能していることがわかります。

        その一方で、すぐわきの道路の東側はゴルフ場。 この馬頭観音さまを眺めていた時も、 ゴルフカートのエンジンの音と、 どうしたのか他人のプレイのミスを汚い言葉で罵る男の怒鳴り声。 あれあれ、みなさんはそこに楽しみに来られたのではないのですか? ゴルフは紳士のスポーツと聞きますがね。 観音さんは、 まあ最近はいつもだいたいこんな様子ですとおっしゃらんばかりに穏和なお顔。

        ともあれ高井戸集落の北方上方に位置するこの峠は、単なる山の中の分岐点ではなく、古くから土地の人に祀られ続けている特別な場所でもあることがわかりました。 ここが峠としての名称を持っていても全く不自然なことではないでしょう。 「ブラリ峠」の名に結びつくなにかが見つかればしめたものだと思いましたが、残念、ここの固有地名と思われる文字が刻まれたものは見つけられませんでした。

    2013-09-29 天王神社参拝



    真・大沢峠

        天王神社を離れ、次は大沢峠の古道を探しに。 新大沢峠Y字路から北に進み、鞍部で減速したら、大沢峠の道標はすぐに見つけられました。 道路整備のために場所が移されたかもしれないと思いましたが、 NV-U37で座標を確認すると、古来の峠であった場所ぴったりです。 移設されたとしても、位置度の変化は10m以内といったところでしょう。 地形を勘案すると、数m以内とも考えられます。 ここが本当の大沢峠だ。

        右の写真は北側から南を向いて撮影したものですが、 こちらからだと道標は矢印を書き込んだところにちょこっとしか見えていません。 注意深く探さずに自動車やオートバイで走っていたならばまず見落としてしまうでしょうね。



        さて、これが大沢峠の道しるべだ。 でも、あれ? 「吉井町」と書かれているぞ。 調べてみると、吉井村と河内村が合併して吉井町ができたのが明治15年、西暦1882年のこととあります。 となるとこの道標はそれ以降のものであり、思ったほどには古くはなさそうです。 なんとなく江戸時代のものかと想像していたのですが。 でも、あれ? なんだか向きが変な気がする。

        写真に写っている面、これを面Aと呼ぶことにすると、

    面 A 右 吉井町方面
    左 猪田道

    とあり、右側の面、これを面Bと呼ぶことにすると、

    面 B 右 下日野方面
    左 入野村日野金井道

    とあります。 となると、これは四差路交差点を示しているわけだ。 迅速地図を見ると、この地点から南東にも細道が描かれています。

        この地から吉井方面は西、猪田道は東に向かう細道ですから、 面Aは北を向いているべきです。 そうすれば面Bは西を向くことになり、 下日野方面は高井戸への南に向かう道を示すことになります。 「入野村日野金井道」は鈩沢を抜けて金井に向かう道であり、現在ではゴルフ場に飲み込まれてしまったルート。 この道はこの地点からはいったん北に向かうので、これも合致します。

        面Aは北を向いていたはず…なのですが、現地では東を向いてしまっています。 面Bは西に向くべきですが現在では北を向いてしまっています。 「吉井町の境界を歩く」に掲載されているこの道標の写真では、面Bに日光が当たっており、面Aは日影になっています。 現在の向きでは、このようなことは起こりえません。 よってこの道標は、場所はもともとの地点から数mとは動いていないけれど、向きは90度間違えられてしまったのだろうということができます。 面Aの「吉井町方面」は大沢峠の古道のことであり、いまは森の中に消えつつあり、「猪田道」はゴルフ場に飲み込まれて消失。 いまもこの道標を使うなら、現在の位置から道路の反対側に移し、面Bを道路に面するように置けばいいと思います。



        道しるべが「猪田道」と示した道はゴルフ場で消えてしまいましたが、 「吉井町方面」の道は吉井町大沢から登ってくる古道であり、 草に覆われつつもたしかに残っていました。 この道を下り始めれば、しかしすぐに車道に出てしまいます。 ここを歩く人は今や文字通り皆無。 やがては消失してしまうことでしょう。

    2013-09-29 真・大沢峠



    坊坂峠

        文献発見。前述ボウ坂峠と仮称したところは実際に 坊坂峠 と呼ばれていることを確認しました。

    …一人息子を亡くした名主は、ひどく嘆き悲しみ、やがて、和尚さんを恨むようになりました。
        「憎らしいのは和尚だ。和尚のやつが息子に毒藷を食わせたに違いない。この恨みは晴らさないでおくものか。」
        さっそく、和尚さんをつかまえて、駒留の後ろの坊坂峠に穴を掘って石のカロウト(石びつ)を作り、その中に入れて生き埋めにしてしまいました。

    ふじおか ふるさとの伝説 p037 「お日坊塚」
    関口 正巳 著
    社団法人藤岡青年会議所 20周年実行委員会
    昭和61年10月12日
    ISBN なし
    高崎市新町図書館 蔵

        この本によれば坊坂峠の畑中にいまでもひっそりと和尚さんが生き埋めにされた石ひつの石塔が立っているとのことです…。

    2014-04-20 文献研究 坊坂峠の呼称を確定


    つづく…かも。


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    Aug. 31, 2013 Page Created.
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