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峰峠


峯の山城

    織田氏ゆかりの地である小幡を擁する甘楽町には、戦国時代の言い伝えと史跡が多くあります。 国峰の山城跡と、峯の山城跡はそういったものの例。 いずれも城跡といってもかすかに痕跡をとどめる程度であり、 想像力豊かな歴史考古学者あるいはマニアでもない限り目を引くものはありません。 山奥にあった峯城跡などは、はたして年間何人がここを訪れるのだろうかと思うほど。

群馬縣北甘樂郡史 本多亀三著 昭和3年 p767

第拾三章 秋畑村

第四節 名所・古墳・城址・古碑
    峯城址

        本村字峯の山上にあり。里人之を城山といふ。東西三十間南北十五間西北及び東方皆廢塹なり。 築廢年月詳かならず。(峯城又国峯城といふ。)
        國峯の城山といふあり。こは小幡村大字國峯にあり。 この峯城と何れか眞何れか否、世人確たる證言をなすものあらず。史籍亦之を徴すべきものなし。 後日の研究を待つて決することゝせむ。
第五節 傳説・口碑・古文書・古碑等
    峯の城址につきてのこと

        國峯城址御殿平裏山の峯より、西南の方は搦手にて切立てたる如き險山、麓には秋畑村の字裏根といふ村あり。 向ふの山の嶺は、峯といふ古城の址なり。(その麓に、秋畑村字峯といふ村あり。) 爰に登れば、東北に方つて眼下に國峯城を見下ろす。それより松枝の邊まで見通す。 まことに此邊の高山なり。按ずるに、小幡上總介信眞君(尾張守信貞)國峯城主、或は峯城主といひて諸書區々なるあり。 小幡十二代の祖信龍斎(或は眞に作る)重定君より、國峯・宮崎兩城主たり。全く始は峯にて、後國峯に遷營ありし故、 古書もかく區々なり。云々(幡氏舊領辨録)

    いまから90年前、すでに国峰城・峯城の沿革は不確実なものになっていました。

    峰峠は額部村 (現 富岡市額部) の南後箇と、秋畑村 (現 甘楽町秋畑) の東峯・西峯の集落をつなぐ細い峠。 昔峯城があったピークの肩を越えており、今は軽トラ級の車道が通っています。

    右に示す明治40年5万図では、峯の集落は示されておらず、また峰峠の呼称も記入されていません。 しかしながら峰峠の道は藤田峠と同じ太さで示されていて、梅の木平から富岡方面に出るための主要交通路であったことがわかります。 現在では東峯・西峯の集落の人に使われるのみですが、現代の電子マップにも峰峠の名称が記入されています。


甘楽野今昔物語(かんらの むかしがたり) 深澤 武 昭和60年 あさお社 ISBNなし p196

甘楽町の峠路 より抜粋
        峰峠は、城山ごえの路である。梅の木平の秋畑小学校の裏から、急坂をのぼり、字峯に至る。 この部落の裏山が、城跡で、から堀の跡がみられ、本丸とみられる台地には、石宮が建っている。 路は、城跡の西、くぼ地を通り、額部の涸沢を経て富岡に至る。
        国峰城 (435メートル) 峯城 (662メートル) の高さがあり、国峰が本城、峯は支城である。 この二城の双立の構えは孫氏の兵法による、 (敵、国峰を討てば、峯これを助け、敵、峯を討てば、国峰これを助け、敵、二城の間に入らば、二城これを討つ。) というのである。
        梅の木平、以東には戦跡を示す地名が残る。 西から、陣出、押野、一の旗、毒水、戦場。 この山城も戦国の末期には落城し時代は移る。 峯部落の獅子舞い祭りには、行列を組み、城山にのぼり、石宮の前で、舞ったとのことである。


「甘楽町史」 九 交通・運搬・交易 (一) 交通路

3 峰峠
        峰 萩之久保の人は、勿論、梅之木平の人も、峠までは急坂ではあるが、小幡を廻るよりは、 巨離(ママ)が近いのでこの峠を通った。 浅香入りの涸沢を通り、田沢から返車峠を越えて富岡へ出た。 馬の通れる道もできていた。今は峠向こうの開墾地までは自動車も行くが、浅香入まで越す人は少ない。

    ここで、「峯」と「峰」の使い分けがあいまいであることに気がつきます。 ちょっとまとめてみると、

山城名 峰城 昭文社電子地図
峯城 甘楽町之地名 / 甘楽野今昔物語 / 群馬縣北甘樂郡史
集落名 峰 (東峰・西峰) 甘楽町之地名 / 甘楽町史
峯 (東峯・西峯) 甘楽町之地名 / 甘楽町1万図 / 地理院地図 / 昭文社電子地図 / 甘楽野今昔物語 / 群馬縣北甘樂郡史
峠名 峰峠 甘楽町之地名 / 甘楽町1万図 / 地理院地図 / 昭文社電子地図 / 甘楽町史 / 甘楽野今昔物語
峯峠 .

    地名研究家の故・関口 進さんによる「甘楽町之地名」のなかでさえ、集落名の「峰」と「峯」は混在しています。 が、集落名・字名としては「峯」が正しそうです。 甘楽町史において集落名・字名に「峰」が使われているのは、MS-DOS時代の日本語ワードプロセッサを使い、 かつ査読が不十分であったためなのではないかと勝手に推測します。

    いっぽう、「峯峠」という書き方は出てきません。 これは、その昔この峠はことさらに固有名をもってしては呼ばれなかったためではないかと思われます。 「みねとうげ」と明示するようになったときには新しい「峰」が充てられたのだろう、と。

    本稿では、集落名は「峯」、山城名は「峯城」、峠名は「峰峠」と表記することにします。


峰峠は藤田峠と同じ太さで示されている


峰峠と榎峠

夏至の夕暮れに染まる

    第3研究所から一番近い峠とも言える峰峠、しかし いのぶ〜 に乗り出すまでの10年間、一度も訪れることはありませんでした。 しかしそれは正解。 とても傾斜がきつい0.8車線でしかもタイトターンもあるときては、 車両感覚がつかみやすいスターワゴンでさえかなりの危険を伴ったでしょう。 路面は急坂の簡易舗装ですがすでにかなり傷んでいてひび割れや段差もあります。 いのぶ〜で初めて峰峠を越えたのは夏至の頃の帰宅寄り道。 浅香入側からの登り、峠へ向かう途中からは、 夕日に染まった街がとても美しく輝いていました。

    峠からの展望は良くありません。 ほかの多くの峠もそうですが、近年手入れがされていない道脇の木々が大きく成長してしまっていて、視界をふさいでいます。 峠からは峯の城跡への細いトレールがついています。 いっぼう峠には石造物はみあたりません。

    峠の南東側の傾斜は20%級で、日当たりの悪い杉林の中を抜けるために道路中央部には苔が生えていて滑りやすく、 特に下りは細心の注意が必要です。

2009-06-23 峰峠 [初]

    岩染から登る古来の藤田峠の道はいまでも車両の通過が可能ですが、 ほとんどの一般ドライバーが恐怖を感じるであろう狭くてタイトターンが続く急な登り。 いまでは藤田峠キャンプ場に行くには南後箇の涸沢から浅香入を抜けて山に登っていく道を使います。 こちらも市街地しか走ったことのないドライバーは恐怖を感じるかもしれませんが、実際普通車でまったく問題なく走れます。 こちらのルートは実はほぼ峰峠の古来のルートなわけです。

    榎峠 に向かうために、6年ぶりに峰峠を越えました (もう6年も経ってるのか…)。 今回は ティーディ を使用。 浅香入から藤田峠への道の途中ので左鋭角に分岐に入り、 アドベンチャーツアラーばりにボディアクションを効かせてぐいぐい登っていきます。 今日はいまにも泣き出しそうなどんよりとした天気で、 景色の印象はほぼなし。 峰峠の道の状態はあまり変わっておらず、すぐに峠。

    前回は気づきませんでしたが、 峠には注連縄が渡されていて、賽の神とされていました。 峰峠は賽ノ神の伝統がいまでも生きている峠なのです。

    榎峠に訪れた後、再び峰峠を逆方向に越えます。 峯の集落から峠までの急坂は小梨峠ほどの斜度ではありませんが、うまくマシンをコントロールしてぐいぐい高度を上げていく充実感が味わえます。


2015-07-04 峰峠 [再]


峰峠


峰峠


峰峠


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